とりあえずそこ置いといて

映画化も、ドラマ化もしない何でもない日常で感じたことや考えたことの寄せ集め

悲劇の小指

また足の小指をぶつけた。何であんなに痛いのだろうか。

朝起きてトイレに行こうとベッドから降り、歩きだそうとした瞬間近くにあったイスに激突。「いっ!」とスタッカートがついた音を発した。本当に痛いときは「痛い!」なんて言えない。よって、“声”ではなく、あえて“音”と表現する。しばらく悶えた後、赤くなった小指を引っ提げてトイレへ向かった。

 

そうそう、「ぶつける」で思い出したが、旅行でホテルに泊まった時に毎回思うことがある。ユニットバスの浴槽の縁が思っているよりも高いということだ。シャワーを浴びようと縁をまたいで浴槽に足を踏み入れようとしたが、上げた足の高さが縁の高さよりも低く、足の指をぶつけたことが何度かある。ああ、わたしは走り高跳びの選手には絶対になれないな、と確信した。…話を戻そう。その「思っているよりも」というのがポイントなのかもしれない。目で見たものと自分の身体との距離感がうまくつかめていないのだろう。なんだか残念な気持ちになった。

 

それにしても、小指は痛い。ぶつけやすいのにぶつけるとめちゃくちゃ痛い。いや、ぶつけやすいから痛いのか。ちゃんと末端まで気を遣えよという身体からのメッセージなのかもしれない。爪が割れなかったことを不幸中の幸いと思うことにしよう。

 

冬の太陽

久しぶりに陽光を浴びた。

 

ここ何日間かずっと曇りか雨か雪だったから気分が沈んでいたが、やっと青空を見ることができた。気分がいい。こういう日は外に出たくなる。夏はあんなに日焼けを気にして日光を避けていたのに、待ってましたと言わんばかりに浴びに行く。

 

ここ最近毎日忙しくて心がパサついていた。どれくらいかといえば、鶏の胸肉くらい。ゆっくりお風呂に入って早く寝て、なんとか次の日を乗り切れる状態をキープしていたが、それだけではパサつきは直らない。

 

晴れた日の朝は一段と冷え込む。が、普段と変わらない服装で外に出た(モコモコ着ぶくれするのが好きではないので、10℃でも1℃でも大して装いに変化はない)。空が青い。吐く息が白い。思い切り深呼吸すると、冷たい空気が肺に流れ込んでくるのが分かった。冷たさが心地よい。光の眩しさに目を細める。寒さと曇天で萎縮した細胞が潤って、元の大きさに戻ったような気がした。日照時間が短くなるとどうも調子が上がらない。かといって、あの夏のように、毎日痛いほど照りつける日差しは勘弁してほしい。ほどほどにしてほしいところだが、人間がコントロールできるものではないから仕方ない。

 

冬の貴重な晴れ間に、ただ日を浴びてボーッとする。この上ない贅沢。

 

湯けむりと椿

露天の湯に浸かりながら、椿を見た。少しぼやけた赤だった。冬の朝の冷えた空気によく似合う、張りのある赤が見たかった。しかし目の前が霞んでいた。湯けむりだ。立ち昇る湯けむりが椿の姿を絶え間なく隠すのだった。けむりを払おうと腕を振ったが、一向に晴れなかった。仕方なく私は腕を湯の中に仕舞った。それから暫く目を瞑り、湯が流れる音だけを聴いていた。

 

しばらくすると、火照った頬に心地よい風が触れた。その風は立ちこめる湯けむりを一瞬でさらっていった。ほんの数秒間、私は本当の赤を見ることができた。白黒の冬景色に彩りをもたらす見事な赤だった。それが、白いヴェールを脱いだ椿の本当の姿なのだ。だが私は、湯けむり越しに見る椿をどうしても忘れられなかった。目の前を遮るものが取り除かれ、やっと本当の姿を見ることができたのに、私はあの霞がかった赤を求めていた。輪郭がぼやけて、周囲の景色と溶け合う椿は、この上なく美しかった。美は移ろう。見る者の心が移ろうからだ。熱い湯に浸かりぼんやりしている間は、全てが霞んで見えるくらいが丁度よいということなのだ。

 

雪が降らなくなった冬を生きるあなたへ

拝啓

雪が降らなくなってどれくらいたったでしょうか。

雪の冷たさや白さは覚えていますか。

ちなみにこの手紙を書いている今は、10年に一度といわれる寒波が襲来していて、骨まで染みる寒さにかろうじて耐えてます。嘘です。温かい室内でコーヒーを飲みながら書いてます。

 

ありきたりな表現ですが、ちぎった綿のような雪が静かに順調に積み重なっています。木々がその綿をかぶったおかげで、殺風景だった遠くの山々はフワフワの白い絨毯のようになりだいぶ華やかに見えます。

すみません、今更ですが、手紙というものをあまり書いたことがないのでどんな感じに書くのが正解なのかいまいちよくわかりません。とりあえず思ったとおりに書いてみます。

 

いろいろ聞きたいことがありますが、まずはこれから。辞書に「雪」という単語はまだ載っていますか。さすがに消えてはいないと思いますが。どういう説明が書いてあるのか非常に気になります。

そうそう、雪といえば、志賀直哉の『雪の日』という短編に出てくる表現が絶品です。

 

「沼べりの枯葭が穂に雪を頂いて、その薄墨の背景からクッキリと浮き出している。」

 

「そして、上等の焼塩のように少しも水気がなくサラサラしている。」

 

情景がすぅーっと脳内に広がって、目の前で実際に見ているかのような気がしてきます。雪の冷たさ、質感がこんなに近くに感じる表現は他にありません。

 

まあでも、雪は大人にとっては厄介者かもしれません。雪かき、雪道の運転など何かと時間と体力が奪われます。でも、しんしんと雪が降る夜は空がうっすらと明るいこと。降り積もった雪に陽光が差すとキラキラと輝くこと。氷点下の空気はパリッと張りつめていて、おまけに不純物が皆無で澄んでいること。美しいと感じる瞬間がたくさんあります。決して悪いことばかりではないと思うのです。

 

雪が降らない冬はどんなものですか。

もちろん、もともと雪が降らない地域もありますが、私は雪国に住んでいますので、雪が降らない冬を想像しようにもうまくイメージが湧きません。ただ、今年の夏の異常な暑さを経験し、いずれは四季がなくなり、猛暑の時期とそうでない時期が交互にやってくるだけという時代が来るのではないかと思い始めています。突然ではなく、少しずつ確実に変わっていくのだと思います。気付いた頃には、「そういえば今年も雪降りませんでしたね」なんて世間話のネタになり、もっと時間がたてば、雪という単語すら登場しなくなるでしょう。あくまで私の想像ですが。当たっていますか? あなたが生きている時代のことを教えてほしいです。

                                  敬具              

 

あと少しで今年も終わるけれど

カレンダーを見て驚愕する。

気がついたらもう30日になっていた。

毎年のことだが、12月はカレンダーを見るたびに「え? もう○日?」と言ってしまう。別に焦っているわけではない。だって、12月で世界が終わるわけではないのだから、そもそも“やり残したこと”なんてあるわけがない。掃除だっていつでもできる。でも、なぜだろう。忙しなくなってしまう。不可抗力だ。何もしなくてもいいのに、何かしなければいけない気分になる。おかしい。20数年間あたりまえのように過ごしてきたけれど、改めて考えるとおかしい。そう思いながら、せっせと部屋の掃除をしている。まあ、棚の後ろにホコリが溜まっている部屋で新年を迎えるのは何か嫌じゃん。

 

掃除といえば、最近みた映画『PERFECT DAYS』において、主人公は公共トイレの清掃員だった。毎日同じ時間に起きて、寝るまで同じルーティンで生活しているが、毎日少しずつ何かが違っていた。この映画を観て、毎日同じことの繰り返しだとしても、全く同じ日なんてないことに気付かされる。毎日何かが変化して、それが波及して自分の日常も侵食してくるから。裏を返せば、全く同じ日が送れないのは、誰かが自分の人生に関わっている証拠だともいえる。誰か、というのは必ずしも家族や友人など近しい人だけではない。

例えばいつも行くスーパーの店員さん。ちょっとした不注意で、自分がいつも買う商品の発注を行わなかったとする。いつも買っているものが買えず、残念な気持ちで別のものを買うと案外こっちの方がいいかもしれないと気がつく。見ず知らずの店員さんの不注意が、自分の日常にほんの少しの変化をもたらしたということになる。この意味で、店員さんは自分の人生に関わっているといえる。少しだけれども。

 

結局何が言いたいのかはっきりしない文章になってしまった。でも別に何かを伝えたくて書いているわけではない。伝えたくて書く場合もあるけれど、たいていはどうでもいい話をこうやって垂れ流している。日記とかエッセイとか雑記とか、タグを付けてはいるが、何に分類されるかは正直自分でも分からない。でも、そういう文章でも、どこかの誰かが読んでくれていると思うと、少し緊張する。というのも、自分の書いた一文、言葉が、読んだ人にどう捉えられているのか分からないから。影響力なんてないことは十分承知しているが、誰かを不快にさせていないか心配になる。それなら書くのを止めてしまえばいいと言われそうだが、それはできない。書くことで頭の中を整理しているから。まあ、それを公開する必要はないのかもしれないが。どうしても、欲がでてしまう。誰かに読んでほしいという欲が。他人を介して自分の輪郭を確認しようとしているのかも。

 

掃除の続きをするのでこのくらいにしよう。

ここまで読んでいただきありがとうございました。

来年もこんな感じで細く長く書いていこうと思います。

 

来年って言ったけれど、あさってから来年だ。

 

信じた道を進む強さ

◆観た舞台

舞台『ジャンヌ・ダルク

演出/白井晃

脚本/中島かずき劇団☆新感線

出演/清原果耶、小関裕太ほか

【東京公演】2023年11月28日~12月17日 東京建物 Brillia HALL

【大阪公演】2023年12月23日~12月26日 オリックス劇場

 

演劇のおもしろさ、素晴らしさを改めて感じた。この感動をうまく言葉で表現できないことがもどかしい。役者はもちろん、この舞台制作に関わっている全ての人たちの熱量に圧倒された。血が沸き立つような興奮を覚えた。

 

まず驚いたのは人数だ。舞台上に100人はいたのではないか。その人数で繰り広げられる戦闘シーンは圧巻だった。舞台の上下、左右、客席通路まで使ったダイナミックな演出で、“観ている”というよりも、“体感している”ような感覚だった。

 

ジャンヌが戦場で旗を振り、フランス軍兵士の士気を高めるという場面がある。「フランスを救え」という神の声に導かれ、その声を信じて自らの使命とした彼女の圧倒的なパワーと覚悟が全身から滲み出ていた。しかし、無事にシャルル7世の戴冠式を終えてからは、神の声が聞こえなくなってしまった。そんな中でも戦場で旗を振り続けていたジャンヌだったが、勇ましさの中に不安や迷いが見え隠れし、これまでのような破竹の勢いが感じられなくなった。極端に変化したわけではなく、ほんのわずかな違いだが、その違いを繊細に表現する清原果耶さんの表現力に感銘を受けた。

 

神の声が聞こえなくなる、つまり、自分が信じていたものが消えてしまったとき、何を思うのか。神は「戦え」と言った、だからその言葉に従い、戦った。当然、多くの犠牲が生じた。彼女は迷っていた。このまま戦い続けることは正しいのか―

神の声が聞こえなくなった今、それでもなお神を信じて、神を信じる自分自身を信じることを選んだ彼女の強さは、火刑台の上での最期の瞬間まで失われることはなかった。

 

ジャンヌ・ダルクは、乙女、魔女、異端、聖女…様々な呼ばれ方をして、特別な存在であるイメージが強かったが、この舞台においては、迷いながらも自らが信じた道を歩んだひとりの人間という印象の方が強かった。

 

ピアノとダンスと想像と

◆観た舞台

『ある都市の死』

上演台本・演出/瀬戸山美咲

出演/持田将史(s**t kingz)、小栗基裕(s**t kingz)、小曽根真

【東京公演】2023年12月6日~10日 草月ホール

【大阪公演】2023年12月12日、13日 サンケイホールブリーゼ

 

戦争を生き抜いたポーランドのピアニストであるシュピルマンとその息子クリストファー、そして、シュピルマンを救ったドイツ人将校ホーゼンフェルトの物語。ピアノ、語り、ダンスで表現する舞台だった。

 

ピアノの音が二人の役者の身体と共鳴して、それに伴い観客の心も共鳴しているような気がした。中でも、街でたった一人になってしまったシュピルマンのダンスは、圧巻だった。生きている感覚をたぐり寄せるように手を伸ばし、地を這い、転がり、空を見上げる――愛する家族を奪われ、街が破壊され瓦礫と化していくことがどれほどの悲しみなのか。ダンスで表現することで、言葉にならないその苦しみが波のように押し寄せてきた。

ピアノとのセッションによってその日、その場限りの表現が生まれる。こんな舞台は初めて観た。ピアノの音に合わせて踊る、踊りに合わせてピアノを弾く。どちらか一方だけでは成立しない舞台なのだと思った。感情をそれぞれの表現方法で表現し、相手に委ねる部分と自分が引っ張る部分を、言葉を使わずに確認し合う。そんな一流のセッションに、ぐいぐい引き込まれた。

 

舞台上のセットは全く変わらないが、見えるはずのない景色が見える気がして、聞こえるはずのない音まで聞こえるような気もした。幻覚とか幻聴とか、そういう話ではない。鍵盤に触れていない時間、セットのテーブルやイスの動かし方、そういう細部にまで気を配っているからこそ物語の世界にグッと入り込むことができたのだと思う。