とりあえずそこ置いといて

映画化も、ドラマ化もしない何でもない日常で感じたことや考えたことの寄せ集め

時よ止まるな

2024年4月某日

 

川沿いの桜並木道を走る。

毎年の密かな楽しみだ。先週までまだ蕾だった花はすっかり満開になった。西に傾き始めた陽光が水面に反射していつにも増して眩しかった。桜並木を通るといつも脳内で再生されるのは、クロード・ドビュッシーの「アラベスク第1番」。音楽を聞きながら走っているわけではないが、頭の中で勝手に再生される。桜の花びらがひらひらと落ちる様子とメロディーが自分の中でベストマッチだからか。情景とメロディーのハッピーセットが、“春”の感覚を思い出させてくれる。

 

並木道は普段、人通りはそこまで多くはない。だが、桜が満開でなおかつ天気がいいという好条件の下では、5メートル進むごとに誰かしらとすれ違うくらい人通りがあった。犬の散歩をする人、小さいお子さんのいる家族、カップル、ウォーキングをする老夫婦―。すれ違う人はみな愛おしそうに桜を眺めていた。この時期になると、メディアでは毎日のように桜の開花情報が報じられ、期間限定の桜風味の食べ物が紹介されている。桜の経済効果はいかほどなのか気になるところだ。ひょっとしたら、もううんざりしている人もいるかもしれない。別に桜が咲いているからといってわざわざ見に行く必要もないし、期間限定フレーバーを頼む必要もない。いつも通りに生活したいという人がいて当然だ。

 

でも私はやはり、毎年桜を楽しみにしている。これでもかと咲き誇る姿を見るとやっと春が来たのだと実感する。そして毎年思うことがある。

 

「あと何回桜を見ることができるだろうか」

 

80年生きるとすればあと50数回か。でも、80年生きるとは限らない。もしかしたら明日、不慮の事故に巻き込まれるかもしれない。「あれ、今日死ぬなんて聞いてないよ」と、予想外のタイミングで死ぬ可能性は誰でも十分にあるということだ。そして、桜が咲かなくなる可能性もあるということを忘れてはならない。温暖化が急速に進み、年間を通して温暖な気候になれば、桜が開花する要件が満たされなくなる。

そう考えると、毎年こうやって桜を見られることは奇跡なのだ。

 

もし、今年が最後だと分かっていたら、桜の見え方は変わるだろうか。この桜が満開のまま、時が止まればいいのにと思うだろうか。でも時が止まってしまったら、桜を美しいと感じる気持ちが薄れてしまうかも。それは嫌だな。どうやら私は、「桜は特別なものであってほしい」と望んでいるみたいだ。限られた期間だけしか見ることができない特別な存在であってほしい。ずっと満開のままなんて考えられない。花が散ってしまうところまで見届けたいのだ。はらはらと花びらが風にさらわれる姿も楽しみたい。たとえ最後だとしても、無情に、淡々と時が進んでほしい。時よ止まるな。満開の桜の下を走りながら、小さく願った。

 

 

★2020年から毎年一編、桜をテーマにエッセイを書いています。