無名日々記

映画化も、ドラマ化もしない何でもない日常で感じたことや考えたことの寄せ集め

春は短し目覚めよ私

春はどうも眠い。

体の周期的に眠気がガツンと来る時期にちょうど重なった今は更に眠い。

 

平日はというと、夕飯を食べてからまず寝る。数十分後に起きてお風呂に入り、その後に本を読もうとするもウトウト。結局何も手につかず寝てしまう。何の予定もない日曜日はお昼を食べた後にすぐ眠くなり、気がつくと1時間半くらい寝ている、なんてことが多々ある。眠りたいわけではないが、眠気に勝てない日々がこのところ続いているのだ。

 

眠るといえば、麻酔で眠る時のあの感覚は忘れられない。数年前、親知らずを4本同時に抜歯するために全身麻酔をした経験は、かなり衝撃的だった。まさに、眠りに“落ちる”という感じだ。吸入するタイプの麻酔だったと思うが、2回ほど深く息を吸ったところでパッと記憶が途切れた。「眠くなってきたな」と感じる前に眠ってしまっていたのだろう。例えるなら、見ていたテレビを急に消されるような感じ。そして気がつくと病室のベッドの上だった。怖いような、クセになるようなあの感覚が忘れられない―

 

寒すぎず、暑すぎない丁度よい気温の今は、心地よくてぼんやりしがちだ。陽光を感じながらウトウトするのもいいが、せっかくのいい天気なんだから、外で庭仕事をしたり、出かけたりしたいとも思う。ただでさえ短くなっている気がする春と秋。もっと存分に楽しまないと、と思ってはいるものの、眠りの誘いを断れないでいる。

 

春になると

春になると花を植えたくなる―

ホームセンターのガーデニングコーナーは花を求める人で溢れていた。

なんだか心が温かくなった。

「あら綺麗ね!」

「この花可愛い!」

「どこに植えようかな」

まだ背丈の小さな花や蕾の状態の花を見つめる眼差しは、みな優しかった。

 

ところで、春になると花を植えたくなるのはどうしてか。

たくさんの種類の花が店頭に並んでいるからつい買ってしまう、というのは理由の一つかもしれないが、それだけだろうか。もともと花が好きだから、という理由もあるだろう。そういえば、「花は好きですか」という質問に対してYESと答える人は世界中にどのくらいいるのか気になる、が、今は脇に置いておく。花が好きなら花屋さんで切り花を買えばいいのではないか。まあ、確かにそうだ。綺麗に咲いている花を飾るのではなく、あえて花を植える、つまり、自分で育てることを選ぶのはどうしてかという話だ。もしかしたら、自分が育てた花が綺麗に咲くことで、満足感が得られるからかもしれない。あるいは、「アタタカクナッタラ、タネヲマコウ、ハナヲウエヨウ」というのが遥か昔からDNAにインプットされている可能性だってなきにしもあらず。

 

別にどんな理由でもいいか。

今年は何を植えよう。

春の日差しをたっぷり浴びて、少しずつ大きくなっていくのを見るのが、今から楽しみだ。

 

生活駄文・十

車窓に映る私は、キンパを頬張りモグモグと口を動かしていた。

新幹線に乗った時の話だ。

 

本を読むのに疲れ、寝ることにも飽きると、大抵は窓の外をボーッと眺めている。日が沈み、外が暗くなり始めると車窓は鏡になる。外を見ていると、ふとした瞬間に自分と目が合ってしまうのがなんだか気まずい。まあでもいつものことなので、それほど気にはしていない。

 

問題は食事の時だ。夜8時頃にお腹が空いてきたので、駅で買ったキンパを食べようとテーブルをセットした。幸いなことに、隣の席には誰も座っていなかったのでゆっくり食事ができる。蓋を開けるとごま油の香りがフワッと立ちのぼり、食欲を刺激した。「いだきます!」と、食べやすくカットされたキンパを一口で頬張った。ふいに窓の方を見ると、モグモグしている自分の姿をはっきりと捉えた。その時のあの何とも言えない気分はどう言葉にしたらいいか分からない。食事をしている時というのはあんなにも隙だらけで無防備な姿なのか。知らなかった。それもそうか。普段鏡の前で食事をするなんてことはないから、自分が食べている姿なんて見る機会がない。恥ずかしいような気もするが、はじめて見る自分の食事シーンをおもしろがっている自分もいる。なんとも不思議な気分のままキンパを完食した。

 

フィルムカメラと写真に関する備忘録【後編】

フィルムカメラで写真を撮ることの魅力は何か。

 

“光”と向き合えることかもしれない。

例えば、少し暗めの写真が好きなので、露出計で示されたF値よりも絞ってみたとする。シャッターを切る瞬間、ほんの少し太陽に雲がかかり、光が弱まったことに気がつかずそのまま撮影。現像して撮った写真を確認すると、思っていたよりも暗くてガッカリ…。なんてことがある。自分の設定が悪ければちゃんと失敗するのだ。一眼レフと違い、どの程度の明るさの写真になるかをモニターで確認できないため、わずかな光量の変化にも気付かなくてはならない。加えて、撮影対象の周囲の色にも気を配る必要がある。撮って、現像して、確認して、反省しての繰り返しだ。なんといっても一度撮った写真は消去ができない。しっかりフィルムに記録されている。失敗をなかったことにはできないのだ。だから、じっくり光と向き合える。大変といえばそれまでだが、それがおもしろい。露出計を確認せずとも「今日の光の具合だとこのくらいかな」と絞りとシャッタースピードを設定できるようになりたい。格好良く言えば、光を読む力を身に付けたい。そのためには、もっとたくさん撮らないとな。

 

撮った写真をすぐに見ることができないのもいい。

フィルム1本分を撮り終えてからその写真を確認するまで時間を要する。無限にある日常シーンを、限りあるフィルムに刻む。シャッターを切ることたった36回。その36枚にはどんなものが写っているだろうか。想像しながら現像を待つ間のワクワク、ソワソワする感じがたまらない。

 

だらだらと書いてみて、「あ、こんなこと思ってたのか私」とはじめて気付くこともあった。好きなものを好きな理由なんて普段考えることがないからいい機会だった。同時に、好きなはずなのに意外と筆が進まなかったのが気になった。情熱が足りないのかもしれない。

フィルムカメラで写真を撮ることが好き。それでいいじゃないか。と、思いたいが、夜通し語れるほどの愛がないことに後ろめたさを覚えてしまう。ということを、忘れぬうちに記しておく。

 

フィルムカメラと写真に関する備忘録【前編】

中古のフィルムカメラを買った。

前に使っていたものが壊れてしまったため、いいものがないか探していたところ、直感的に「これだ!」というものに出会った。「Konica ⅡB」というカメラだ。調べてみると1955年販売開始のようだった。ということは今から約70年前。販売開始されたのがその年なので、私が買ったカメラが製造されたのはもっと後かもしれない。それにしても綺麗な状態だった。多少のキズはあるものの、新品かと思うくらい綺麗だった。前に使っていた人がきちんと手入れをして、丁寧に扱っていたことがよく伝わってきた。だから、カメラを前に「次は私が大切に使います」と、顔も名前も分からない前の持ち主に敬意を表して宣言した。

 

いざ使い始めると、一枚撮るまでに何工程もあることに気がつく。露出計を用いて適正露出を測り、絞りとシャッタースピードを自分で設定する。ファインダーをのぞきピントを合わせる。そしてフィルムを巻き上げ、シャッターをチャージし、シャッターボタンを押す。これでやっと一枚撮れる。スピード感は皆無だ。決定的瞬間を逃すことは明らかだろう。そもそもピントがちゃんと合っているかも分からない。

 

でもそれでいい。むしろそれがいい。

フィルムカメラで写真を撮ることが楽しいのだから。

 

最近のスマホカメラの性能はとんでもなくいい。自分が思った通りの写真を撮ることはそう難しくはない。多少失敗しても後から修正できる。なんなら、アプリを用いてフィルム写真の質感を忠実に再現することだって可能だ。そんな便利なものがあるのに、私はほとんどスマホで写真を撮らない。

え、なんで?

写真が好きならフィルムカメラで撮ろうが、スマホで撮ろうが関係ないように思う。“何で”撮るかよりも“何を”撮るかの方が重要だという考えを持っているならなおさらスマホで写真を撮らないのは不自然だ。あれか、写真はカメラで撮るべきだという意地でも張っているのか。いや、待てよ、私は数行前に何と書いたっけ。「フィルムカメラで写真を撮ることが楽しい」と書いた。

 

これまで写真が好きだと何度も言ってきたが、よく考えたら、なんともアバウトな表現だった。今ようやく分かった。私が「写真が好き」という時は、「フィルムカメラで写真を撮ることが好き」を意味しているのだ。

じゃあその魅力って何?

 

つづく

 

生活駄文・九

コーヒーショップにて。

また注文してしまった。何をって、あまり好きではないメニューを。商品を受け取って、一口飲んでびっくりした。

 

「あれ? これ前にも頼んだことあるぞ。しかもあんまり好きな味じゃない…」

 

やっちまった。なぜだ。もう二度目は注文しないと思っていたことを忘れたのか。それとも、二度目は味が違うとでも思ったか。もっと美味しくなっているはずだと思ったのか。味が変わるわけがなかろう。あ、でもそう言い切るのも失礼か。もしかしたら地道な企業努力で、少しずつ商品の味が改良されているかもしれない。さらに美味しいものを作ろうと、日々仕事をしている人に対して失礼な発言だった。問題は私の方にある。

 

思い返せば、コーヒーに限らず、スーパーでも同じミスを犯したことがあった。何の商品だったかは忘れたので、仮にプリンとする。スタンダードなプリンから変わり種まで数種類が陳列されているが、どれが美味しかったんだっけ? と散々迷った挙げ句、以前食べて微妙だったものを選んでしまった。苦手な味のパッケージくらい覚えておけよと思う。失敗から学ばない自分にうんざりする。でも、なんだか人間らしいとも思う。

 

この現象に名前を付けるなら何だろうか。いや、待てよ。何でもかんでも名前をつけて片付けようとするのもやっぱり嫌なので、やめておこう。あぁでもやっぱり言おう。

それは、愛しきバグ現象だ。

 

幻の通学路

先日、ふと思い立って、散歩がてら小学校の時の通学路を歩いた。卒業以来だったからかなり久しぶりだ。

 

家から小学校までは、当時の歩くスピードで20分以上かかる距離だ。よく毎日歩いたもんだと今更ながら感心した。そのおかげで、と言っていいのかは分からないが、長距離を歩くことに抵抗がない。大学時代、最寄り駅からアパートまで約30分を平気で歩いていた。もちろんいつもではない。バスを利用することも多々あった。音楽も聴かず、スマホも見ず、ただひたすら歩くだけの無駄な時間と思われるかもしれないが、歩きながらよく考え事をしていた。たまにいいアイディアが思いつくこともあった。だから私にとって、歩いている時間は決して無駄ではない。そろそろ本題に移ります。

 

通学路を歩いていると、当時に比べ建物が低くなったような不思議な感覚になった。それもそのはず。自分の身長が伸びたのだから。

 

「あれ、あの家前からあったっけ…?(空き地ではなかったと思うけど…)」

「うわっ、地下道の水漏れもそのままだ。(おいおい、そのままでいいのか?)」

 

なんて、変わったものと変わらないものを交互に感じていた。

 

終盤に差し掛かったとき、あることを思い出した。そういえば低学年の頃、秘密の抜け道を通って帰っていた。白状すると、抜け道というのはがっつり人様の家の敷地である。後ろに人がいないことを確認し、すぅーっと家と家の隙間の通路を抜け、庭をとおり、道路へ出ていたと思う。当時の私は、歩き慣れた道から外れて自分以外誰も通っていないだろう秘密の道を通るというスリルと興奮の虜になっていたのだろう。ただ、バレたら絶対に怒られる(その家の人にも、先生にも)。結局バレることはなかったが、自分だけの秘密の通路を見つけたワクワクよりも、他人の家の敷地に無断で侵入する罪悪感の方が勝るようになってからは、通っていなかった。

その通路はまだあるだろうか。

 

淡い期待は裏切られた。

通路があったと思われる家は建て替えられていた。秘密の通学路は幻になってしまった。なんだか寂しかった。時の経過を見せつけられたようだった。確かにそこにあったはずなのに。いざなくなってしまうと、本当にこの場所で合っていたのかと不安になる。自分の記憶までも疑ってしまう。あの時感じたワクワクも、なんだか急激に色褪せていくような気がした。でも、仕方のないことだ。家も人も、街並みも変化してあたりまえだから。私が覚えていればそれでいいのかもしれない。大切な思い出として仕舞っておいて、ふとした瞬間に思い出す。その通路は、私の思い出の中だけに存在する。それはそれで、なんだかワクワクする。