とりあえずそこ置いといて

映画化も、ドラマ化もしない何でもない日常で感じたことや考えたことの寄せ集め

ひとりじゃないと思える存在

◆観た映画

『星くずの片隅で』

監督/ラム・サム

出演/ルイス・チョン、アンジェラ・ユンほか

2022年/香港/115分

 

フワッと心に温かい風が吹いてくる気がした。

コロナ渦の香港の街で、懸命に生きる人々の姿を描いた作品、といえば一言で終わるが、一言では片付けられないくらい素敵な作品だった。不条理だらけの世界で、それでも人を信じ、人と繋がって生きていくことの大切さを感じた。

 

清掃会社を経営するザクが、アルバイトで雇ったシングルマザーのキャンディに言った「世の中はひどい。それに同化するな」というセリフが印象深い。キャンディは娘のジューのために、清掃の仕事で入った家から買い溜めしていたマスクを盗んできた。それに気付いたザクが言った言葉だった。たった数日関わっただけの他人にそんなことを言われたキャンディは逆ギレのような態度をとっていたが、その言葉がちゃんと心に響いているなと感じる場面がこの後何度かあった。

 

印象的な二つのシーンがある。

一つは、突然たった一人の家族である母を亡くしたザクが、何も親孝行ができなかったと後悔の念を涙ながらキャンディに話すシーン。キャンディは何も言わずそばにいた。

もう一つは、ザクが自分の会社が倒産に追い込まれた原因(ジューが仕事で使う洗剤を床にこぼしてしまったこと…)を知り、娘のせいだと言えなかったキャンディに対して「辛かったな」と言ったシーン。それを聞いたキャンディは堰を切ったように涙を流した。

ザクとキャンディの関係は、恋人とも友達とも言えないが、ただ単に社長と従業員という関係でもない。ジューも含めれば、傍からみれば家族のようにも見える。でも家族ではない。はっきりと定義できない関係でありながら、互いを思いやり、信頼しあいながら“ひどい世の中”を生きていく姿を見て、心がじんわりと温かくなった。

 

家族・夫婦・友人・恋人…名前のある関係は確かに強固なものかもしれない。一方で、キャンディのように、他人に期待せず、自分だけを頼りに生きていく道を選ぶ人もいる。ひとりでも生きていけるけれど、ひとりじゃないんだと思えることがどれだけ心の支えになるか。信じてくれる人がいることが、どれだけ明日を生きる希望になるか。強固な繋がりがなくても、思いやり、寄り添える人がいれば、大丈夫、生きていける。

 

心の奥底に沈んでいるものは?

◆観た映画

『アンダーカレント』

監督/今泉力哉

出演/真木よう子井浦新ほか

2023年/143分

 

ものすごく感情が揺さぶられる映画だった。

感情が露わになる場面はほとんどなく、セリフも多いわけではないが、登場人物たちの気持ちがじわじわと伝わってきた。伝わるというよりも、自分も同じ気持ちになっているような気がした。今、彼女は、彼は、どんな気持ちなのだろうかと想像する余白がたくさんあったからかもしれない。

主人公のかなえ、失踪した夫の悟、かなえが経営する銭湯に突然やってきた堀の3人は、それぞれ何かを心に抱えているのは分かったが、それがどういうものなのかはじめは全く想像ができなかった。物語が進むにつれ、それぞれの心の奥底に沈殿したものの欠片が一つ、二つと表層まで浮かんできた。

 

印象的だったのは、かなえが、再会した夫に対して「本当のことを話して」と言ったときの夫の反応。彼は、本当のこととは何なのか分からないと言った。周囲から求められる人物を常に演じ、嘘を重ねて生きてきたから、どれが嘘でどれが本当なのか見分けがつかなくなっていた。そのことを飄々と語りつつ、時々うろたえたような表情もみせる芝居に引き込まれた。ずっと嘘をつき続けてきたが、ずっと一緒に暮らしていたことは紛れもない事実。その日常の中で芽生えた“本当の気持ち”と、嘘がバレたらどうしようという気持ちが複雑に絡み合っていることがものすごく伝わってきた。

 

映画の終盤、自分自身の話は一切してこなかった堀が、かなえに、自分が何者か打ち明けるシーンがある。そのシーンがすごく好きだ。二人で食事をしているとき、かなえが、別に好きではないのにいつもドジョウのお裾分けをもらっていることについて、「ずっと好きだと思われているから今更“実は苦手でした”、なんて言えない」と言う。それを聞いた堀は突然涙を流しはじめ、自分は何者なのかを打ち明ける。コップいっぱいの水が表面張力の限界を超えてこぼれだすように、彼の心の中に溜まっていた様々な思いが一気に溢れ出した。その繊細な表現に、私も心が揺れ動いた。自らの過去に深く関わっていることを知ったとき、かなえはどう感じたのか。二人の関係はその後どうなったのか、いろんな想像をしてしまう終わり方だった。

 

「人をわかるってどういうこと?」

この映画の大きなテーマだ。相手のことを100%分かることなんてできない。自分のことすらよく分からないこともあるのに。分かる、という言葉は普段何気なく使うが、対象が人となったとき、簡単には口にできないと感じた。その人が普段何を考えているか、どういうものが好きか、何をされるのが嫌なのか、これらを知っているだけではその人を分かったことにはならないのだろう。では何を知っていれば分かったということになるのか。もっと、こう、心の深い部分、例えば、過去のつらい出来事に対する気持ち(一見忘れているようだが、実は沈んでいるだけで何かのきっかけで思いだしてしまうこと)を知っている。そして、その痛み、苦しみを共有する覚悟がある場合にはじめて、その人のことを(100%ではなくとも)分かっている、と言えるのではないか。はっきりとした答えは見つかっていないが、ぼんやりとそんなことを思った。

 

音楽もまた素晴らしかった。ザラザラ、ソワソワする感じ…うまく言葉にはできないが、不穏だけれどもなぜか落ち着くような気もする。すうっと心に入り込んでくるようだった。

 

「寂しい」と似て非なる感情

不意に、寂しいような気がする時がある。

それは、一人でいる時だけではない。周りにたくさん人がいる時もだ。でも、周りにたくさん人がいるのに寂しいってどういうことだ? とりあえず、辞書で意味を調べてみた。

 

さびしい【寂しい】

①人やものが少なくて、にぎわいを感じさせないさま。②寄り添うものがあってほしいのに、それがなくて孤独な気持ちである。③あるべきものがなくて、物足りない気持ちである。(明鏡国語辞典 第三版 より)

 

 

例えば一人で昼食をとっている時。誰かと一緒に食べることが嫌いなわけではないが、何となく一人で食べる方が楽なのでお昼休憩はたいてい一人でいる。でも、ふと、寂しいような、心がスースーするような気分になる時がある。これが「寂しい」なのだとしたら、3つの意味のうち、必ずどれかに当てはまるはず。①や③ではない気がするので、②なのか。自ら望んで一人でいるはずだが、「誰かと一緒に食べたい、一人は嫌だ」と心の奥底では思っているということなのだろうか。いまいちピンとこない。

 

もう一つ例を挙げる。小学校に入る前、1年ほど入院していた。小児科だったこともあり、クリスマスの時期には小さなクリスマス会が催された。プレイルームに子どもたちが集まり、読み聞かせを聴いたりしていた。細かい部分はよく覚えていないが、私は母のもとを離れて看護師さんと一緒に会場に行ったと思う。周りには私以外にもたくさんの子どもがいた。しばらくその場にいたが、急に心に穴があいたような気分になり、涙が出てきたのだ。何かに飲み込まれるような不快な感情に耐えきれず、泣きながら母のもとへ戻った記憶がある。これは寂しいという感情だったのだろうか。

 

確かに、その場にいた子たちとは顔見知り程度で、親しくしていたわけではない。私自身、誰とでもすぐに仲良くなれるような子ではなかったこともあり、一人置いてけぼりになってしまったような気がしたのかもしれない。そう考えると、「寂しい」の②の意味に該当しそうだ。

 

では、仮に母と一緒にクリスマス会に参加していたら、そんな感情にはならなかったのだろうか。いや、寄り添うものが近くにある状況であっても、同じ感情になっていたと思う。なぜかは分からないがそう思う。そもそも、「心に穴があいたような気分」というのは、「寂しい」とは別物なのかもしれない。ほとんど「寂しい」と同じだが、ほかの要素も入っているから純度100%の「寂しさ」ではない。というか、混じりけのない「寂しさ」って何だ? 辞書の意味にバッチリ当てはまるもののことか。

 

とにかく、当時の私がなぜそういう気分になったのかは思い出せないが、はっきりと定義できない感情があるということは分かった。言い表せなくても、曖昧でも、確実に感情は揺れ動いている。その揺れを何かしらで表現できるようになりたい。…なんて、言ってみたかっただけ。おしまい。

 

陶芸体験記

はじめて陶芸体験をした。

陶芸で使う土の塊を実際に持ってみると、思っていたよりもずっしり重かった。土の感触はとても滑らかで冷たく、触れていて心地よかった。形の異なる湯飲みを二つ作ろうと思い、球状にまとまっていた粘土を糸のような用具で半分にした。

 

まず、適当な量の粘土をちぎって回転台の上に載せる。厚さがだいたい1センチくらいになるように手のひらを使って伸ばす。これが土台となるのだ。次に、同じようにちぎった粘土を棒状に伸ばし輪をつくり、先ほどの土台の上に載せる。そして、土台との境目をなくすように馴染ませていく。ここでしっかり馴染ませないと、焼き上がったときにひびが入ってしまうのだそう。輪を作り重ねて馴染ませる、この作業を3~4回繰り返すと形ができてくる。膨らみがあった方がいいか、スリムな形にするか、模様を付けるかなどは、好きなようにしていいとのこと。はじめての体験で、記念すべき一個目なので、シンプルにしようと思い、模様は付けないことにした。表面をヘラで整えたり、厚さを均等にするために少しずつ伸ばしたりと微調整を繰り返し、やっと一つ完成した。

 

作りたい形を思い浮かべながら手を動かすのは、簡単そうに見えて意外と難しかった。そして、なかなか想像通りの形は作れなかった。何年も何十年も作り続けている人なら、頭で思い描いた形どおりに作り上げることができるのかもしれない。ほんの少しの力加減で厚さや形が変わるから、お手本と同じように作っているつもりでも、全く同じ形にはならない。思い通りにならないもどかしさもあったが、どうしたらいい形ができるかを考える楽しさの方が勝った。ものづくりは、実際に自分の手を動かしながら学ぶのが一番だということを実感した。

 

二つの湯飲みを作り終えたあと、心地よい疲労感とともに、次はあれを作りたい、これも作ってみたいという欲が湧いてきた。形だけではなく、釉薬の配合や焼き方など、こだわりだしたらキリがない。今回の体験は形を作るところまで(釉薬は4種類の中から選んだ)だったが、それだけでも、陶芸の奥深さ、ものづくりの大変さとおもしろさを感じることができた。

お気に入りの器が一つあるだけで、日々の暮らしに彩りがもたらされる。あらためて手づくりの器の素晴らしさを感じた。使いやすいように工夫された形は美しく、ぬくもりが伝わってくる。美は日々の生活の中にある、なるほど、これが“民藝”の考え方なのだ。たった数時間の体験で、多くのことを学ばせてもらった。土に触れ、指先に神経を集中させたことで、全身の感覚が研ぎ澄まされたような気がしている。とにかく、ものすごく楽しかった。

 

本を読まなくなると…

以前よりも本を読まなくなった。

本を読むとあれこれ考えを巡らせてしまう。あの表現がめちゃくちゃ好きだとか、あれってどういう意味なんだろう、とか。その時間が好きだった。しかし、それによって影響を受けるものがある。仕事だ。何かにどっぷり浸かると、他のことに集中できなくなる。仕事が好きで最優先、という生き方をしているわけではないが、「ほどよく適当に」ということができないので、集中してこなすためにノイズとなるものは無意識に避けてしまう。つまり、読書は“ノイズ”認定されたということになる。仕事が最優先ではないはずが、結果的に仕事を優先してしまっている。疲れていると眠くて、文字を追っていると瞼が下がってくる。本を読みたい気持ちもあるが、睡魔には勝てない。明日も仕事だし、寝よう。息抜きはどうしているのかと言えば、寝ること、あとは、短時間かつ何も考えずに楽しめるもの(スマホでも見ることができる30分のドラマなど)で済ませている。一日の中で、何かをじっくり考える時間なんてほぼない。そんな毎日を繰り返していた。

 

あるとき、文章が書けなくなっていることに気がついた。月3回はブログを更新しようと決めていたため、何か書こうとパソコンに向かった。だが、言葉が出てこなかった。テーマも何も思いつかない。考えることを止めると書けなくなるのだ。〈本を読む→考える→書く→考える→気づきのセンサーが敏感になる→新しい考えに触れたくなる→本を読む〉そんなサイクルが壊れていた。ショックだった。でも、思考を停止させ、手っ取り早く日々の嫌なことを忘れさせてくれるものに飛びついた自分が悪い。

 

毎日少しでもいいから本を読もう。そして、日々の生活を見つめよう。何年後かに、「気付いたら~年経っていたけれど毎日仕事以外何もしていなかった…」という状況になることは何としても避けたい。

 

雲を見下ろして

機内にて。

離陸から数十秒後には雲を見下ろしていた。

普段地上で生活をしていて、雲を見上げるとは言うが、雲を見下ろすという言葉を口にすることはまずない。久しぶりに雲を見下ろすと言った。天気がよかったので、白塊の群れの間から地上の景色が見える。ありふれた表現だが、ミニチュアの世界のようで、走行する自動車なんて蟻の行列だった。白塊は流氷のごとく空を漂っていた。その様子を見て、“あれに乗ってどこか遠くに行きたい”と思った。何言ってるんだこいつは、と自分でも驚いた。子どもの頃から考えることは変わらない。雲ってのは水とか氷の粒の集合体で、そもそも乗ることなんてできないんだよ。分かってる。分かってはいるけれど、想像するのは自由だ。

 

雲に乗るのに免許証的なものは必要か? 運転とか操縦の必要がないから不要かもな。じゃあ、雲に乗って世界中を旅するのにパスポートはいるか? 地上に降りるわけではないから要らないか…。そもそも、雲に乗れることを前提にしても、どうやって乗るのだ? 飛行機からはしごを降ろして降り立つか、もしくは、○○タワー最上階に専用はしごを設置して登るか。でも、はしごを登っている(降りている)最中に雲が動いてしまえば大変だ。乗り降りの最中に動かないように固定する装置が必要かも。あ、雲の性質によって乗れない日もあるよな。いかにも雷を落としますよという色の雲は絶対に乗れない。そういえば、日焼け対策を万全にしないと真っ黒に日焼けしそうだな。雲から雲への乗り換えも楽しそう。乗り心地に違いはあるのか検証したい。あとは…このくらいにしておこう。

 

久しぶりの空の旅だったからか、はじめて飛行機に乗った時のような高揚感がしばらく続いた。が、窓の外を眺めながら妄想に耽っていたので、この静かな興奮は誰にも気付かれていないだろう。

 

あつすぎたなつ

猛暑、猛暑の夏だった。

ひたすら暑さに耐えた夏だった。危険な暑さと言われても家から一歩も出ないで生活はできない。朝、玄関のドアを開ければすでに30℃に達している世界が待ち受けている。

 

そんな日が続く中、ふと、暑さに慣れはじめていることに気がついた。体が猛暑対応可にアップデートしたのかと思った。この体のまま涼しくなってしまうと、それはそれで体調を崩しそうである。秋の足音が近づいている…なんてことを実感させてもらえない残暑の折、急に秋を感じる瞬間があった。夜、ベッドに入って目を閉じると、外から虫の声が聞こえてきたのだ。もしかしたら盛夏の間も鳴いていたかもしれないが、ここ最近よく聞こえる気がした。気温は季節を感じる要素の大部分を占めるが、気温以外のところでも季節の移り変わりを感じる要素はたくさんある。虫の声もそうだし、スーパーに並ぶ食材もそう。

 

暑いけれど、着実に季節は変わろうとしている。