とりあえずそこ置いといて

映画化も、ドラマ化もしない何でもない日常で感じたことや考えたことの寄せ集め

何を見るか、何が見えるか

写真が好きだ。何だかざっくりした表現なのでもっと具体的に言うと、シャッターを切りたくなるような構図や色に出会った瞬間のワクワク感が好きだ。とりわけフィルムカメラは、現像するまでどんな写真が撮れているかわからないので、現像してもらった写真を見る瞬間もワクワクする。つまり、カメラという機械の周辺に転がっている数多のワクワクを味わうのが好きなのだ。でも、写真を撮りながらふと思うことがある。それは、いい写真とはどういうものなのか、ということだ。

 

そんなことを考えるきっかけともなった写真集がある。それは、川島小鳥さんの『未来ちゃん』という写真集だ。購入してはじめて見たときは、どこにでもいそうな少女の日常の記録写真なのになぜこんなにも惹きつけられるのか不思議でならなかった。今はパソコンでフォトブックを簡単に作ることができるので、たとえば自分の子どもの写真集を作ろうと思えば作れてしまう。それと『未来ちゃん』は何が違うのか、私はずっと考えていた。結局、これだ!という答えは見つかっていない。でもそのかわり、写真集を何度も見て感じたのは、ノスタルジー、そして作者と少女のまなざしだ。

 

この写真集を見ている時、キュートな表情や行動に思わず顔がほころぶことがよくあった。でも、それは単に他人の子どもを見て可愛いと思う気持ちだけではない。自分にもこんな瞬間があったかもしれない、同じようなことをしていたかもしれないというように、自分の子どもの頃を思い出して、懐かしいという感覚にもなったのだ。あるところに住んでいる、ある少女の写真が、自分の遠い過去の記憶を想起させる。いい写真には、見る人の心の深い所まで刺激する力があるのだと思った。そして、少女の目が印象的だった。カメラ目線の写真もあるが、そうでない写真の方が多い。目線の先には何があるのか、写真に写っていない景色を想像させる。時々びっくりするくらい大人びた表情でこちらを見つめてきてドキッとする。演じているわけではない自然な表情だからこそ惹きつけられるのだろうか。そんな写真を撮った作者の目線からこの写真集を見てもおもしろいと思った。少女と行動を共にしながら写真を撮る。カメラは作者のまなざしそのものである。あくまで想像だが、こういう表情を引き出したいという気持ちよりも、この子と一緒にいると自分は何を感じるんだろうか、何が見えるんだろうか、という気持ちで撮ったのではないかと思った。

 

一見記録写真のように見えても、見る者の心に訴えかける、何だか分からないが惹きつけられる、という写真がある。どうしてそんな写真が撮れるのだろうか。一つは、撮影する対象(人物)を徹底的に「見ている」からだと思う。この場合の「見る」は表面的に観察することを意味する。徹底的に観察することで一瞬の表情の変化や魅力的なしぐさ、感情の変化を見逃さずに撮ることができる。そしてもう一つは、撮影する対象と共に「見る」ことができているからだ。「あなたの目には何が見えているの?」というように、撮影対象のまなざしを自分の中に取り込んでいるのだろう。客観的に観察すること、そして、グッと近づくこと。この二つが、いい写真を撮るために必要なのかもしれない。

 

たった一枚でも、そこに写っているものの周りの景色が見えてきて、物語が想像できる。それが私が思う“いい写真”だ。そういう写真を撮るのは簡単なことではない。でも、だからこそおもしろい、と私は思った。