とりあえずそこ置いといて

映画化も、ドラマ化もしない何でもない日常で感じたことや考えたことの寄せ集め

遠き春、近き春

2021年4月某日

 

今年も桜の季節が終わりを迎えようとしている。開花、そして満開になり、散る時期が年々早まっていると感じるのは、気のせいではないだろう。そんなに急がなくともいいのに、と思わずにはいられない。さて、今年も桜を見ていて思うことがあったので、書き記しておくことにする。あれは確か、満開の桜の写真を撮っていた時のことだった—

 

数週間前、いわゆる桜の名所と言われる所に写真を撮りに行った。日が傾き始める時間帯ではあったが、満開ということもあり、そこそこ見物客がいた。皆が上を見上げている中、私は下を向いてカバンの中からごそごそカメラを取り出した。そして桜の花にカメラを向けて撮り始めたのだが、ファインダーを覗きながら、「おや?」と首をかしげた。なぜなら、「桜の花って、近くで見ると意外と普通。」と思ったからだ。別に綺麗じゃないと言っているのではない。改めて近くでまじまじと見ると、決して特徴的な形、つくりをしているわけではないことに気がつく。

 

ここで思った。「『花見に行く』と言った時、いったい何を見に行ってるのか?」と。いや、花見なんだから桜の花を見に来てるに決まってるじゃん、とツッコミたくなるのを押さえて考えてみる。そもそも、花見をするという行為の目的なんて考えたこともなかった。毎年春になると咲いて、いつの間にか散ってしまう桜。いわゆる“期間限定感”があり、毎年人々に、「今のうちに見ておかなければ」という気持ちを芽生えさせる。もしも桜が期間限定ではなかったら、「花見に行きたい!」という気持ちにすらならないのではないかとも思う。話を元に戻そう。考えてみると私は、桜の花を見るためというよりは、桜がある風景を見るために花見に行っていることに気がついた。つまり、花を愛でる感覚よりも、いつも見慣れた風景に薄ピンク色の彩りが足された状態を目に焼き付けるという感覚の方が強い。そうすると、私にとっては桜の花一つ一つが美しいかどうかはそれほど重要ではなく、桜を含めた風景が美しいかどうかが重要だったと言える。

 

人があるものを“見る”とき、その対象物と自分との距離が、見え方に大きく影響してくるのだと思う。そして、その距離の取り方も人それぞれ違っている。だから、同じものを見ていても、同じように見ているとは限らないのだ。当たり前すぎて言葉にするまでもないかもしれないが、当たり前すぎて忘れていた。例えば「桜を見る」というとき、私は桜を含めた風景を見ている。そして、その風景に美しさを感じている(つまり、遠くから眺めるだけで十分満足できる)。他方、薄いピンクの小さく可憐な桜の花を見ている人もいるだろう(ある程度近づかないとよく見えない)。もしかしたら、もっと違う桜を見ている人もいるかもしれない。遠くから見る桜、近くで見る桜、あなたと私では、美しさを感じる距離が違っているのだ。そうすると、一つのもの・ことを様々な角度から見ることも大切だが、近づいたり、遠ざかったりと距離を変えて見ることも、新しい発見をするためには大切なのかもしれない。

 

桜のある風景は、毎年見ていても見飽きることはない。春の初め、厳しい冬を越えた喜びを分かち合うように、優しいピンク色で私たちを包み込む。そんな桜も、すでに散り始めている。ひらひらと花びらを散らす姿が、春の終わりを告げる。

 

 

★2020年から毎年一編、桜をテーマにエッセイを書いています。