とりあえずそこ置いといて

映画化も、ドラマ化もしない何でもない日常で感じたことや考えたことの寄せ集め

私と桜とマルとバツ

2022年4月某日

 

桜の季節になると思い出すことがある。

小学時代、オリジナルカレンダーを制作するという内容の授業があった。何の科目だったかは覚えていない。国語だった気もするし、そうでない気もする。とにかく、12枚の紙が配布された。その紙は上下に分かれており、下の段にはカレンダーが既にプリントしてあった。そして上の段は空白。この空白に、各々好きな絵を描くということらしかった。絵心をどこかに落としたまま年を重ねていた私はしばらくその空白を見つめ、何を描くか考えている風を装った。アイデアはなかなか降ってこなかった。といっても授業時間は限られているため、何とか描きやすい月から描くことにした。4月は自分の誕生日がある。ケーキを食べている様子を描けばいい。


ということで、できあがった4月の絵は、巨大なケーキの周りに小さな人間がいて、その人が顔より大きいサイズのフォークを持っている絵だった。…上出来だ。次の5月はどうしようかと考えていると、まだ桜を描いていないことに気がついた。どうしても桜だけは描きたかった。だから、5月の空白には桜の絵を描いた。そうしてどうにか12枚完成させて、先生に提出する時がきた。12枚の渾身の作品を見た先生は何という言葉をかけてくれるのか。すると予想外の言葉が発せられた。

 

「5月は桜の時期じゃないから、描き直したほうがいいよ。」

 

ああそうか。5月になれば桜は散ってしまっているからダメか。5月の絵として桜はふさわしくないのだ。私はその時、先生の言う通りに5月分を描き直した。

 

数年後、大学生になった私は衝撃の事実を知った。入学して間もなく、北海道出身の子と仲良くなった。お互いをよく知らない時に話題になることといえば互いの出身地のこと。季節もちょうど春真っ盛りであったので、自然と桜の話題になった。そこで初めて北海道(その中でも地域差はあるが)は5月でも桜が咲いていることを知った。自分の住んでいる地域以外の桜の開花情報は意外と知らないものだ。知る必要がないから注目していないだけなのだが。5月でも桜が咲いているという事実は、私の古い記憶に突き刺さっていた小骨を揺らした。あのとき、5月に桜は咲かないからと描き直したカレンダー。納得して描き直したつもりだったが、なんとなく腑に落ちない、違和感があるものとして残っていた。5月にも桜は咲く。何も間違ってはいなかったのだ。間違っていないとは思うが、私に与えられたのはバツ印だった。

 

ある物事の正誤を判断するとき、人によって答えが違うことは言うまでもない。それぞれ自分の判断基準に従って判断するのだから。だが、同じ物事を同じ人が判断するときでも、前提条件次第でマルだったものがバツに、バツだったものがマルに変化することがあるのだ。例えば5月のカレンダーに桜の絵を描くこと。「私たちが住んでいる地域の自然や行事についての絵を描く」という条件が明示されていたのなら、その絵は間違っている。私が住む地域では、桜は4月中旬に満開を迎えるのだから。でも、もし「その月に関係のある絵を描く」という条件だけしか与えられていないのなら、間違いではない。5月に桜が咲く場所もあるのだから。そもそも条件なんてものはなく、何でも自由に描いていいのであれば、想像力を目一杯働かせて描けばいいのであって、そこに正しいか間違いかの判断をする余地はない。

マルはバツの可能性を孕み、バツはマルの可能性を孕んでいるということだ。これは厄介だ。しかしこのことは、絶対にマルなものはないし、確実にバツなものはないということを示している。だとすれば私が描いた桜の絵は、正しくもあり、間違ってもいる、と言える。

 

カレンダーの絵を描く時、どんな条件が与えられていたかは残念なことに全く覚えていない。ただ、自分が描いた絵が間違っていると言われたことは、桜の季節になると必ず思い出してしまう。だから毎年、正しさとは何なのかという問いについて考えざるを得なくなるのだ。

 

 

★2020年から毎年一編、桜をテーマにエッセイを書いています。