とりあえずそこ置いといて

映画化も、ドラマ化もしない何でもない日常で感じたことや考えたことの寄せ集め

春の跡

2020年4月某日

 

なぜ人は桜を美しいと思うのだろうか?


満開の桜を見ながらふと考えた。いや、そもそも美しい理由を考えること自体野暮だという人もいるはず。私もそう思う。綺麗なら綺麗でいいじゃないか。「桜=美しい」という方程式は普遍的なものなのだろう。でも、なぜそうなるのかという理由は人それぞれ違うのかもしれない。私は、自分がなぜ桜を美しいと思うのか知りたいのだ。

 

薄いピンク色が可愛いから、桜並木が綺麗だから、青空との相性が抜群だから、一斉に咲き始めたかと思えば一瞬で散ってしまうその潔さに“美”を見いだすことができるから…


桜が美しい理由が次々と浮かんできた。そして、それらの理由に対して疑問も浮かんできた。薄いピンク色の花は他にもたくさんあるし、秋になれば黄色いイチョウ並木が美しい。青い空には真っ赤なハイビスカスや大きなヒマワリがよく似合う。そして、全ての花は咲いたら散る。そう長くは持たない。少々、いや、かなり理屈っぽいことを言っていることは自覚している。どの理由も正解なようで、正解ではない気がする。

 

色々と理由を挙げていく中で、一つ興味深い理由を見つけた。それは、「春という季節を背負わされているから」というものだ。宿命とでもいうのだろうか。凍てつく寒さの冬を越え、桜のつぼみが膨らみ始めると、人々は春の兆しを感じ始める。そして、旅立ちや出会いの行事の良い引き立て役として、記念写真の背景を飾る。桜の開花と共に春が来て、全ての花びらが地面に落ち、薄いピンクが茶色に変化する頃、春が過ぎ去る。もはや桜は、“春の風物詩”なのではなく、“春を背負わされているもの”なのではないか。抗えない運命に絶望することなく、ただ咲いて、ただ散る。春のために。そこに儚さや潔さなどを見いだす余地もないくらい淡々としているのだ。誰に見られようが見られまいが関係なく、粛々と春という季節を進める。私はそこに、美しさを見いだした。そして、花が終わる頃に、枝に鮮やかな緑をつけ始める所も憎いほど趣がある。春の跡を残しつつ、次の季節を感じさせる、まさにプロの仕事人だ。

 

今年は、全国的に桜祭りのような催しが中止となり、立入禁止となっている桜の名所もあるようだ。しかし、たとえ誰にも見られないとしても、綺麗だねと言われなくても、これまで通り、淡々と咲いてしまう。そして、季節は進んで行くのだ。桜が美しい理由を色々と考えてみたが、考えれば考えるほど分からなくなった。けれども、とても興味深い理由を一つ見つけられたので、小さな収穫だと思うことにする。そうして来年、満開の桜の下で、再び考え直すことにしよう。

 

 

★今年から毎年一編、桜をテーマにエッセイを書いていきます。