とりあえずそこ置いといて

映画化も、ドラマ化もしない何でもない日常で感じたことや考えたことの寄せ集め

ある小さな崩壊

最近まで、家の中でチューリップを飾っていた。

日中は花びらが大きく開いていた。横から見ると可愛らしい湯飲みのような形に見えるのだが、上から覗くとおしべとめしべがはっきりと確認できるものだから、なんだか見てはいけないものを見てしまったような気になった。…まあ、そんなこんなで、秋に植えた球根がこんなに立派な花を咲かせるのかと、しみじみその成長ぶりを感じていた。家に飾って2週間ほどたった頃だろうか、仕事から帰ってくると、一本のチューリップの花びらが全て落ちて、おしべとめしべが露わになっていた。私は驚いた。もっと言えば、二つのことに驚いた。一つは、チューリップの花の終わり方だ。“散る”のではなく“崩壊する”という言葉がふさわしいと思った。花が崩壊する瞬間を目撃したかったが、それは叶わなかった。偶然かもしれないが、まるで人がいる時間を避けているかのようだった。崩れる姿は見せたくない、花の意思なのかもしれない。朝までちゃんとチューリップとしてそこに在ったのに、今は跡形もない。床に落ちた花びらは、まだみずみずしかった。その花びらを一枚ずつ拾い集めながら、ふと、残ったおしべとめしべを見ると、まだピンピンしていた。花びらは一枚もないのに、めちゃくちゃ元気そうだった。これが驚いたことの二つ目。

 

チューリップは死んでいない、と思った。死んでいないけれど、花びらを失ったその植物を果たしてチューリップと呼んでいいのか分からなかった。それに、崩壊といっても、崩れたのは花びらだけであり、おしべやめしべをはじめ茎もまだそこにあった。花びらもみずみずしかった。どこまでが生でどこからが死なのだろうか。分からなくなって、露わになったおしべとめしべが付いた茎だけをしばらくそのまま花瓶に入れていた。

 

形あるものが、時間の経過とともに崩れていくのが自然の法則。だが、普段生活していると、そんな自然の法則を感じることは滅多にない。だから、私にとってチューリップの崩壊は鮮烈だった。ちょうどその時期は職場が変わってすぐの頃だったので、クタクタで家に帰って、花の様子を見る余裕もなく、食事をして寝るだけという生活だった。私が忙しかろうが、花を愛でるゆとりがなかろうが、時は確実に進んでいる。戻ることはない。ある部屋の中である日突然起こった小さな崩壊だが、そのことに気づくには十分だった。