とりあえずそこ置いといて

映画化も、ドラマ化もしない何でもない日常で感じたことや考えたことの寄せ集め

渇き。

幼い頃は、物に振り回されていた。

例えばチョコレート菓子とセットになっているおもちゃのネックレス。よく覚えていないがネックレスは10種類くらいあったと思う。それを集めるのにはまってしまい、スーパーに行くと必ずお菓子コーナーに行き、母の買い物カゴにチョコレート菓子を放り込んだ。このネックレスの収集で一番興奮する瞬間は、箱を開ける瞬間だった。開封してみないとどのネックレスが入っているか分からなかったので、自分の好みのものが入っているかどうかが判明するその時が最もワクワクしたのだ。だが、そう簡単に当たりを引けるわけがない。欲しかったネックレスが入っていなかった時は悔しくて、すぐに次を求めた。今度は陳列棚の奥の方から取ってみよう、など作戦を練って次の機会を今か今かと待った。待っているときはもうネックレスのことで頭がいっぱいで、もし手には入ったらどうやって飾ろうかと妄想がプクプクと膨らんでいた。ずっと喉が渇いているようだった。水がほしくてほしくてたまらない。何だかソワソワして落ち着かない。そんな気分だった。そして何度目かの挑戦でついに好みのデザインのネックレスを手に入れた。だが手に入れてしまえばすぐにネックレスの収集に対する熱が冷めた。喉を潤すだけの水が手に入れば、それで十分だった。なぜなら、喉が渇いている状態を常に望んでいたから。つまり、欲しい物を「欲しい」と思っている状態でいたかったのだ。

 

少し前、精神的にしんどかった時期に、幼い頃と同じ渇きを感じた。SNSを見ることに対してだ。見ていないと落ち着かないというわけではないが、毎日決まったタイミングで必ずチェックするようになってしまった。SNSをチェックして何を得ようとしていたのだろうか。たぶん、言葉を欲しているのだと思う。それも、自分がかけてもらいたい言葉、自分の今の状態を肯定してくれる言葉だ。不特定多数に向けて発信された無数の言葉の海の中には、触れるとケガをするようなトゲトゲしたものもたくさんある。それでも、海の中を泳いで自分の心を満たしてくれるような言葉を必死に探した。自分の周りの人から自分に対して直接かけてもらったわけではない言葉で心の隙間を埋めていたのだ。言葉に飢えていたのだ。誰の言葉か、どんな背景がある言葉なのかを考えず、表面だけを見て効能を期待して摂取していたということだ。だが効果を期待して摂取した言葉というのは次の日には忘れていることが多い。というか、今となっては全く覚えていない。そういう言葉はすぐに消化されて栄養にならずにそのまま排泄されるのだろうか。一時的に不安を解消する効果はあるかもしれないが、やはり、心にずっとは残らない。だからまた“効き目がありそうな言葉”を探しに出てしまう。

 

そもそも、言葉に救われたいからSNSを見ていたのではなく、SNSで言葉を探している方が心が楽だった(=画面をスクロールする動作に集中することで不安な感情から一時的に解放される)から見ていたのではないかとも考えた。

 

結局、物でも言葉でも、欲しいものを「欲しい」と思い続けることでそれ以外のことを考える脳のスペースを縮小させ、考えなければいけないこと、決断しなければいけないことを遠ざけていたのかもしれない。求めて得て、また求めての無限ループから抜け出すには、逃げずに自分自身と向き合うしかないのだ。

それに、言葉はそんなに何でもかんでも貪るように摂取するものではない。不安を解消する効果はなくても、噛めば噛むほどうま味が出てくるような言葉、たとえすぐには理解できなくても琴線に触れた言葉を心の栄養としたい。