とりあえずそこ置いといて

映画化も、ドラマ化もしない何でもない日常で感じたことや考えたことの寄せ集め

三人称の死と感情

例えば、生まれてから約1,000日で死んだ人がいる。その人は、社会の中ではほんとうに小さな存在で、誰かに守ってもらわないと生きていけなかった。その人は、守ってもらえなかった。その人が最後に見た景色は何だっただろうか。天井だっただろうか。誰もいない台所だっただろうか。世界が閉じていく瞬間、何を思っただろうか。この世での1,000日間の滞在は楽しかっただろうか。見たいものは見られただろうか。食べたいものは食べられただろうか。

私たちはその人の死を「かわいそう」だと思っていいのだろうか。「かわいそう」という気持ちは、自分たちが経験してきたことを経験できずに死んでしまったことに対して向けられたものだろう。その人は、もっと生きられるはずだったのに生きられなかった。やるせない。かわいそうで見ていられない。それは結局、自分の人生とその人の人生を無意識に比較しているのではないか。1,000日間の短い人生が不幸だったとは限らない。そもそも1,000日間を短いと思うかどうかも本人次第だ。その死に対して抱く「かわいそう」は正しい感情なのか。もし、違うのなら、どんな感情を抱くのが正解なのか。

 

例えば、生まれて約10,000日で死んだ人がいる。その人は有名人だった。笑顔が素敵なその人は自死を選んだ。何がその人に死を選ばせたのか。笑顔の裏にどんな苦しみ、悲しみがあったのだろうか。しんどかったら誰かに頼ってと言われても、どうやって人に頼るのか分からない人だっている。そして、人に頼れない自分がさらに嫌いになる。その人は最後、何を思っていたのだろうか。誰の顔が思い浮かんだだろうか。

テレビでは、みなで自死原因の推測合戦をしていた。その間ずっと、画面の隅っこに「一人で悩まないで相談して」という文字と電話番号のテロップが表示されていた。一体何に“配慮”しているのだろうか。そのニュースに影響されて死を選んでしまう人がいないようにという配慮か。その人と直接会ったことも話したこともない人が言うお悔やみの言葉にはどんな意味があるのだろうか。私は何を思えばいいのだろうか。

 

例えば、生まれて約25,000日で死んだ人がいる。その人は知らない誰かに殺された。最後に感じたのは痛みだっただろうか、この世への未練だっただろうか。まさか自分の人生がここで終わるなんて夢にも思っていなかっただろう。

その人は、過去に国のトップだったことがある。その人の死の知らせは、瞬く間に社会に浸透し、国外へも伝わった。それから2~3日は、その人の功績を振り返る報道がなされた。それが収まると、今度は殺した人の物語を深掘りする報道に切り替わった。数日間、テレビ、新聞、ネットがその人の死のニュース一色に染まった。テレビでは、どの局も同じ話題で同じような切り口で同じようなコメントが飛び交っていた。選択肢が消えた気がして恐怖すら感じた。だからしばらくニュースは見たくなくなった。

 

生まれてから1,000日生きた人、10,000日生きた人、25,000日生きた人。私にとってはみな赤の他人だ。死に優劣などない。生前に何を成し遂げたのかは関係ない。その死が社会にもたらす影響も関係ない。ただ、安らかに眠ってほしい、それだけだ。