とりあえずそこ置いといて

映画化も、ドラマ化もしない何でもない日常で感じたことや考えたことの寄せ集め

レイヤードワールド

私は演劇が好きだ。

 映画も好きだが、演劇はもっと好きだ。なぜだろうと考えた。芝居を見ることが好きなら、別に映画でもドラマでも同じであるはず。でも、また何か違う惹きつけるものがあるのだろう。その日、その場所でしか味わうことができない貴重さがあるから。有名な役者の芝居を生で見ることができるから。理由はたくさんある。が、これらの理由に難癖をつけるならこうだ。その日、その場でしか味わえない経験をしたいのなら、別に演劇鑑賞でなければならないことはない。有名な役者の芝居を生で見ることができるとはいうものの、本当は、有名人を生で見られたという優越感を得たいだけなのではないか…。こんなところだろう。


 つまり、演劇という芸術が好きな理由は、ここにはない。もっと別のところにあるのだ。その本当の理由を最近ようやく見つけた。私が演劇を好きな理由、それは、『一つの空間にたくさんの“層”が出現していることが、とんでもなく面白いから』だ。

 

 ”層”が出現するとはどういうことかというと、一つの空間(=舞台上)で全ての場面が演じられることで、日時や場所の転換(=セットや衣装のチェンジ)があったとしても、転換する前の空気感が残っているということだ。もちろん、演出によって、あえてそういう空気感を残すものもあれば、全く別物の空間を作り出すようなものもある。演出の仕方云々はさておき、演劇とは、“層”を作り出す芸術なのではないかと思うのだ。

 

物語の登場人物達が確かにその舞台上で生きている。彼ら彼女らの人生が、一つの空間で交錯する。ほんの2~3時間で、あっという間に舞台上にたくさんの“層”が出現する。その“層”が、物語に奥行きを持たせる。つまり、今日、次の日、~年後、朝、夜などの時間の“層”や、たくさんの登場人物達の感情の“層”などが重なることで、物語としての面白さに舞台という空間の面白さがプラスされてくるのだ。そういう魅力が、演劇にはある。

 

 ところで、“層”がいくつもある空間は、舞台の上だけなのだろうか。あの有名な劇作家、ウィリアム・シェイクスピアは、《この世は舞台》などと書いた。でも流石に、いつも行くカフェに、前にいた客の空気感が残っていたらと想像するのは無理がある。この世はどこまでも現実なのだ。いや、待てよ、そう考えると、世の中には生きている人の数だけそれぞれの“現実”という名の“層”があるのではないか。たくさんの異なる層が重なり合う中で、喜んで、悲しんで、傷つき傷つけ、生きている。人生に、台本など存在しない。誰かが観劇に来るわけでもない。例えるなら、無観客の即興一人芝居だ。そんなことなら、幕が下りるまでの間は、思い切り自由に演じてやりたいと思う。

 

 やはり、《この世は舞台》なのかもしれない。各々の”現実”という”層”で覆われた舞台で、自由に、面白く生きるにはどうしたらよいか? 今の私の課題は、それを考え続けることだ。