無名日々記

映画化も、ドラマ化もしない何でもない日常で感じたことや考えたことの寄せ集め

決して奪われることのない自由とは

◆読んだ本

『夜と霧 新版』/ヴィクトール・E・フランクル池田香代子訳/みすず書房/2002年

 

人生は選択の連続だ。

このことは、選ぶ余地がないという状況でも同じことが言えるのだろうか。

例えば、強制収容所の中。極限まで人間としての尊厳、そして自由を奪われた状況下で、被収容者が何かを自分で選択するということが可能なのか。著者は可能であると述べている。では一体何を選ぶのか。それは、自分自身のふるまい方だ。自分がどんな精神状態でいるかは選ぶことができるのだという。そうすると、私が数行前に書いた、収容所は「極限まで人間としての尊厳、そして自由を奪われ」る場所という解釈は訂正する必要がありそうだ。

 

著者の考えに沿って言うならばこうだろう。収容所は、労働に適した者は過酷な労働を強いられ、適さないと判断された者は殺される場所であり、適するか否かを選ぶ自由はない。しかし、このような状況で何を思うか、どんなふるまいをするかという自由までは奪われない。それは自ら放棄するか否か選択可能なものなのだ。

 

 この本を読んで、自分自身の凝り固まった考え方がもみほぐされるような感覚になった。私は今、誰かに自分の行動・言動を制限される状況下にあるだろうか。そんなことはない。思い切り自由なのだ。自分では選べないと思っていたことでも、実は選べることがたくさんあったのだ。人生は、育った環境によってある程度決まる? いいや、何に影響を受けるかは自分で選択できたはずだ。お金がない、時間がないから自分のやりたいことができない? いいや、所詮その程度でつぶれる志しかなかったということだ。

 

自分で選ぶ余地がないという出来事が起こったら、ひとまずその状況に身を委ね、その中で自分はどういうふるまいをすべきか考え、決断する。周りの環境が悪いからといって、自分も堕落する必要はない。どんな状況においても、自分で選択できることは必ずあると、この本は教えてくれた。

 

 感染症の世界的大流行により、私たちの行動の自由は大きく制限された。制限されたと言っても、実際は「自粛」という言葉の元で、自分のふるまいを自分で制限していた時間の方が多いのではないか。まるで、強制収容所に自ら入っていくように。そんな自粛生活の中で、心が荒んでいくのをそのままにしておくか、新たな楽しみを見つけ心の豊かさを保つのかはもちろん選択可能だった。あなたはどちらを選びましたか。