とりあえずそこ置いといて

映画化も、ドラマ化もしない何でもない日常で感じたことや考えたことの寄せ集め

見せたくはないが、見えてもいいものを

 暑さが体にまとわりつく、一年で最も不快な季節がやってきた。同時に、肌の露出増加に伴う諸々の気遣いの季節がやってきた。私が最近直面したのは、「インナーをわざと見せているのか、否か」問題である。

 

 夏の時期は七分丈の開襟シャツを着ることが多い。サウナの中にいるのではないかと錯覚するような日、肺にキノコが生えそうな湿度の日はもちろん、すっかり冷え込んだ室内でも一枚で過ごすことができるからだ。何かと重宝しているのだが、一つだけ難点を挙げるとすれば、前にかがむとシャツの中が見えてしまうというものだ。下に落ちたペンを拾う時、お辞儀をする時、別に見せようとしているわけではないのに、見えてしまう。一度気にしてしまうと、「気にしない」ようにするのが難しくなる性分のため、下を向くときはさりげなく胸元に手を添えていた。だが、手を添える行為は、「隠している」という意識を一層強めるため、余計に気になってしまうという始末だ。自意識過剰も甚だしく自分でもうんざりする。どうしたものかと考えた末、どうせ見えるのなら見えてもいい服を着ることにしようと思い、肩から胸元にかけてレース生地になっているタンクトップを購入した。

 

数日後、事件は起った。職場にて、私がトイレから出ようとしたその時、ちょうど入ってきた女性がすれ違いざまにこう言った。

 

「ここ、見えてるよ。」

 

自身の鎖骨の辺りを指さしながら、インナーが見えているとこっそり私に教えてくれたのだ。あまり急に言われたものだから、私は「え?」と言葉を発することしかできなかった。ましてや、シャツの中が見えてしまうのが嫌だから見えてもいいものを着ているのだ、だからおそらくあなたが思っているような下着ではないですのでお気になさらず、なんて長い言い訳を発することができるはずもない。そんな私をよそに女性は間髪入れずに、

 

「あっ、ゴメンなさい! もしかして見せてる?」

 

と言うものだから、私もとっさに、

 

「ええと、そうです。」

 

と答えてしまった。女性は申し訳なさそうにもう一度「ゴメンね。余計なこと言ったね」と言い、トイレの中に消えていった。下着が見えていることを教えてもらう、というたった30秒ほどの出来事だったが、まさかそれがわざと見せているという方向に帰結するとは思いもしなかった。確かに私は“見えてもいい”ようなものを着ていたが、決してわざと”見せよう”と思っていたわけではない。“見えてもいい”と“見せよう”は、内心の話であり、外観的には見えていることに変わりはないのだが、やはり私の中では全く同じものに分類することはできない。

 

 インナーをあえて見せるというファッションがあるが、それは“見せたい”という自分の意思が存在しているからこそ成立するのである。だから、自分が意図していないところでインナーが見えてしまうと、だらしない人だと思われてしまう危険性がある(あの人、下着見えてるよ、ダサい。といった具合に)。それは是非とも避けたい。そこで登場するのが、”見えてもいい”という心持ちだ。ファッションとして着こなすまでの心意気はないが、見えてしまったときにだらしないと思われたくはない。中途半端な状態と言われれば否定はできない。とても面倒くさい考え方であることも否定できない。だが、そういう状態が良い塩梅のときもある。たとえ人に伝わらなくても、それはそれでいいのかもしれない。