とりあえずそこ置いといて

映画化も、ドラマ化もしない何でもない日常で感じたことや考えたことの寄せ集め

ホームセンターのウサギ

よく行くホームセンターの一角にペットコーナーがある。ペットを飼う予定はないが、ケージの中で何をして過ごしているのか気になり時々見に行ってしまう。

 

忙しなく動き回っている犬もいれば、静かに食事をしているウサギもいた。眠っているハムスターもいた。私は食事をしているウサギをじっと観察していた。モグモグと勢いよく食べるわけではなく、ちまちまとゆっくり食べていた。ケージの中には一匹しかいないため、エサの争奪戦は起こらない。誰に奪われるわけでもないエサを自分のペースで食べていた。その時のウサギの目が印象的だった。私が食事中のウサギを観察していると、そのウサギはチラッとこちらを見た。その目は何かを悟ったような、まるで「どうせあんたもここから出してくれないんでしょう?」と言っているような目だったのだ。可愛く見せるのは疲れたと言わんばかりのその目に、私は思わず「おつかれさま」と言いたくなった。動物の心が読めるわけではないので、そのウサギが本当は何を思っているのか、あるいは何も思っていないのか、分からない。動物の人間らしい部分を見つけると、勝手に人間の感情を当てはめて気持ちを理解したような気になる自分が嫌になる。でも、そうやって想像せずにはいられないのだ。

 

それはどうしてだろうか?

人間の感情を無理やり当てはめてまで動物の気持ちを理解しようとするのはどうしてだろうか。たぶん、何を思っているのか、何を考えているのか分からないままでいることに耐えられないのだろう。つまりそれは、「知りたくても知ることができないものがある」という現実に対しての拒否反応なのだと思う。知ることができないからこそ、自分が知っている感情や気持ちを勝手に当てはめて、理解し、自分だけが満足する。理解できないものを、理解できないまま受け入れるということは、なかなか難しい。どうあがいても、自分が飲み込みやすいようにかみ砕いてしまう。かみ砕かれた側にとってみれば、「そのままだと受け入れられない」と言われているようなものだ。かみ砕かずに受け入れるにはどうしたらいいか。今はまだ答えが出せない。

 

ウサギの話に戻ろう。ケージの中は快適なのだろうか。無事に飼い主に出会えるだろうか。ウサギのケージの近くには、“一匹12円”と書かれたコオロギのケージがあった。中を見るとみな死んでいた。いや、生きているものもいたかもしれないが、ケージの中で動いているものはいなかった。ケージの中で死んだコオロギはどうなるのか。あのウサギを飼いたいという者が現れなかったらどうなるのだろうか。そんなことを考えながら私はケージの前から立ち去った。