とりあえずそこ置いといて

映画化も、ドラマ化もしない何でもない日常で感じたことや考えたことの寄せ集め

火葬場のおにぎり

日を追うごとに夜の時間が長くなってきた。秋場の空気は今年も人々を感傷的な気分にさせる。さあみんなでエモくなろうと言わんばかりのなんともいえない香りが漂い始めていた頃、祖父の葬儀は執り行われた。

 

祖父の葬儀の日は雲一つない秋晴れだった。火葬場は清潔感があり、大きな窓から太陽の光が差し込んでくるような場所。もっといえば、これから肉体が焼かれ骨だけになるという現実を包み隠すかのように、綺麗で香り一つしない、日常とはかけ離れている場所だった。私たちは手順通りに最後のお別れをした。今、確かにここにある肉体が、眠っているようなその顔が、この世から完全に消え去るのだ。そのことをゆっくり理解する間もなく火葬炉の前に到着してしまった。今度こそ本当に、最後。ふと周りを見れば、そこにいたほとんどの人が、ハンカチで涙を拭いながら棺を見送っていた。そして祖父の肉体は、快晴の空に立ち上る煙と共に消え去った。

 

 控え室に戻ると、軽食が用意されていた。私は、そこで見た光景と漂っていた香りが忘れられない。どんな光景かというと、涙で棺を見送った者たちが、まるで日常のワンシーンのようにテーブルを囲み、会話をしながら食事をしていた光景だ。つい数分前まで涙を拭っていたその手で、おにぎりを食べていたのだ。そこには、お米や海苔の香り、つまり日常の香りが充満していた。日常とはかけ離れた状況下でふと漂ってきた強烈な日常の香りに、胸がざわついた。

 

私は、火葬場は、亡くなった人ともう一生会話することも、触れることもできないという事実と静かに向き合う場所であると考えていた。だから、そんな場所で食事という、極めて日常的なふるまいをするなんて、ちゃんと死に向き合っていないのではないかとすら思った。たぶん私は、死に関することは全て非日常として捉えたかったのかもしれない。でも、祖父が亡くなって一番悲しいはずの祖母でさえ、おにぎりを食べていた。その姿を見て、私はハッとした。一見すると、死者を弔うことは残された者にとっては一大事(=非日常)だ。しかし見方を変えると、各々の日常という一本の線上の出来事に過ぎないともいえるのだ。大切な人が亡くなっても、陽は昇るし、電車は動くし、いつも見ているテレビ番組は始まる。食べる、眠る、働く、遊ぶ、その延長線上に、弔うことがあるのではないか。そういう見方をすると、役所での諸々の手続きや葬儀の日程調整・段取りなどはまさに普段の事務仕事の延長だし、葬儀費用などの出費、つまり“お金”について常に念頭に置く必要があることも極めて日常的だと思えてくる。でも、弔うことがこんなにも事務的で、日常的でいいのだろうか。こんなにも、まるで仕事が忙しいかのような振る舞いをしていいのだろうか。やはり、非日常と位置づけてゆっくり大切な人の死と向き合う時間とした方がいいのだろう。それが理想なのかもしれないが、結局、その理想はビジネスになりサービスという形で提供されることになる。強烈な日常の香りを漂わせていたおにぎりも、しっかり経済を回していたということだ。