とりあえずそこ置いといて

映画化も、ドラマ化もしない何でもない日常で感じたことや考えたことの寄せ集め

妄想米(コメ)旅行記

今、目の前には茶碗に盛られた白米があります。

炊きたてなのでしょう、湯気が立ち上っております。湯気に顔を近づけますと、熱気と共に米の香りが鼻腔を通って口の中まで侵入してきます。その柔らかい刺激は唾液の分泌を促します。口内はその米を受け入れる準備が整ってきました。白い山に箸を入れて持ち上げれば、粘りと張りのある米粒たちが箸からこぼれ落ちるようで落ちないぎりぎりの状態を保っているのを近くで見ることができます。水分をたっぷりと含んだ粒の艶を見れば、頬張りたい欲求が最高潮に達するでしょう。しかし、ここで箸を止めることにいたします。何をするのかといいますと、少々時間を遡ってみようと思うのです。今、目の前にある米粒がまだ田にいた頃、そうですね、1ヶ月ほど遡りましょうか―

 

上手く遡れたでしょうか。まだ目の前に白米があるようでしたら失敗ですね。もう一度遡ってみてください。今、目の前には斜陽に見つめられて黄金色に輝く稲穂があります。収穫間近の稲穂の色を表現する際によく用いられる色であるため黄金色と申しましたが、黄色に橙色と茶色を混ぜたような色というのが正直なところです。色を表す言葉は多くありますが、言葉では表現できない色も少なからずあるのだと思います。ですので稲穂の色も、人によっては黄金色ではないという方もおられると思います。名前を与えてしまえば理解しやすいのかもしれませんが、名前のないものの曖昧さも受け入れる心を持ちたいものです。涼風が立ちはじめる頃、間もなく収穫の時を迎えようとしているそれは、頭を垂れて揺れております。炎暑に耐え、長雨にも耐え、皆同じ背丈に成長し、同じように頭を垂れているその姿を見ると、その強さに圧倒されるような気がいたします。そして、この一面の黄金色の絨毯が人々の腹を満たすのだと思うと、より一層輝いて見えるのです。それでは、さらに4ヶ月ほど遡りましょう―

 

新緑の頃です。田には水が張られております。風が全くない時には鏡の如く周囲の景色を映します。田植えが始まっているようです。水田に植えられた苗はまだ小さく、先ほど頬張ろうとしていた白米の面影は微塵もありません。この小さな苗が無事に黄金色になることを祈るばかりです。ただ、どれだけ熱心に祈っても不作となる可能性をゼロにはできないのです。天明の飢饉(1782年~)では、凶作と火山の噴火が同時に起こってしまった結果、多くの餓死者を出しました。凶作と災害が重なるということが現実としてあったのです。極端な例がもしれませんが、「まさか」が本当にあったのです。近頃は雨の降り方や気温が異常であると実感する機会が増えました。地球温暖化は着実に進んでいるのです。とはいっても、現に自分に何か不都合が生じていない限り、「温暖化が進んでいる」という言葉は現実味のないものに聞こえてしまうのでしょう。そういう時こそ、想像してみましょう。もし異常気象で大凶作に見舞われたら……米や野菜が食べられないだけでは済みません。生態系が変化し、人間が生きていく環境自体が変わっていくかもしれません。さらに食糧問題は国内政治や国際関係にも多大な影響を及ぼし、世界のパワーバランスが大きく変化するかもしれません。……随分遠くまで来てしまいました。そろそろ戻りましょうか。

 

今、目の前には箸で持ち上げられたまま放置された一口分の白米があります。たった一口分の米からでも、多くのことが想像できます。面倒なことかもしれませんが、やってみると案外おもしろいものです。一見自分には縁のない事柄でも、あれこれ想像していくうちに自分との関係が見えてくることも十分あります。

ではこの話はこのくらいにして、冷めないうちにいただきましょう。