とりあえずそこ置いといて

映画化も、ドラマ化もしない何でもない日常で感じたことや考えたことの寄せ集め

冷めない香り

大学時代、夫婦で営んでいる小さなお弁当屋さんに週に一度か二度通っていた。お弁当屋さんからはいつも揚げ物の香りがしていた。その香りを嗅ぐと、不思議と心がほぐれていった。

 

一人暮らしを始めた当初は、なるべく自炊をしようと意気込んでいた。だが元々食べることにあまり興味がなかったということもあり、次第に「お腹が満たされれば何でもいいや」と思うようになっていった。そんな時出会ったのが、あの小さなお弁当屋さんだ。おいしそうな香りに誘われ、お店に吸い込まれた。私は店の一番人気だというかき揚げ弁当を注文した。アパートに帰ってさっそくかき揚げを一口頬張った。ご飯の熱でくたっとなった衣の中からタマネギやニンジンのうまみが滲みだしてきて、それが甘塩っぱいタレと絡んで口の中に幸せが広がった。「おいしい、おいしい!」と独り言を言いながらあっという間に完食した。こんなに食べるという行為に集中したのは久しぶりだった。作り手の顔が見えることで、その人と食べ物を通じて繋がっている気がして心まで温かくなった。

 

大学を卒業して引っ越す前日、最後にどうしてもかき揚げ弁当が食べたくて店に足を運んだ。もうすっかり顔なじみになっていた店の人に、次の日に引っ越すこととこれまでの感謝を伝えて、最後のお弁当を注文した。揚げ物の香りが店の中に充満してきた。そう、この香り。どんなにしんどくても、この香りを嗅ぐと心がホクホクしてくる。電子レンジで温めるお弁当とは違う手作りの温かさ、人のぬくもりがそこにはあった。静かにお弁当を待つ時間も、お会計の時に店の人とおしゃべりする時間も、どれも大切な時間だった。帰り際、「仕事頑張ってね!」という言葉と共に夫婦揃っていつもの笑顔で送り出してくれた。そして私は、段ボールが散乱する部屋で最後の晩餐を始めた。優しさが嬉しくて泣きそうで、でもやっぱりおいしくて。お腹と心を満たしてくれたことに感謝しながら、最後の一口を頬張った。