とりあえずそこ置いといて

映画化も、ドラマ化もしない何でもない日常で感じたことや考えたことの寄せ集め

日常に潜む違和感

 ある日の昼、職場のトイレに入ると、2~3人が列を成していた。その列というのは、ちょうど手洗い場の反対側の壁沿いにできている。ということは、用を足した人が手を洗い、ふと顔を上げると、列に並んでいる人と鏡越しに目が合ってしまうような位置関係なのだ。と、ここまで言えば大体想像がつくと思う。そう、私もばっちり目が合ってしまったのだ。いや、別に合わせようとしたわけではない。たまたま私が鏡を見るタイミングと、手洗いを終えた方が顔を上げるタイミングがぴったりと合ってしまった。その時の恥ずかしさはなんというか、いつも以上に“見られている”感が増しているという表現がふさわしいかもしれない。

                   

 もちろん、これは私の主観的な感覚なので、全ての人に当てはまるわけではないと思う。それを前提にしつつ、自分は一体なぜそんな感覚になったのだろうか。私の場合、誰かと目を合わせて話す(または話を聞く)ことは苦手ではない。目を合わせることに抵抗はないはずなのに、「鏡」というものを媒介して目が合うと、途端に恥ずかしいという感情が芽生えてくる。おそらく、こういうことだと思う。実際に向き合った時の相手の目と、鏡に映った相手の目は、同じようで違うものなのだ。ちょっと何言ってるか分からないっす、と言う声が聞こえてきそうだ。上手く説明するのは難しいが、つまり、鏡を介すると自分と相手が向かい合うのではなく、同じ方向を向いているのに目だけは合っているという状況が生じる。そこに違和感を覚えるのだ。その違和感が、“見られている”という感覚を強めているのかもしれない。

 

 いつかのドラえもんで、「もしも鏡のない世界があったら」というお話があった(確か、妹が見ていた時に自分もたまたま見たような気がする…)。そのお話は、鏡がどれだけ日常生活に必要不可欠かを改めて考えさせられる内容だった。具体的には…いや、話すと長くなりそうなのでやめておく。とにかく、トイレの鏡はもちろん、車のミラーなども含め、鏡は、一日一回は必ず見るくらい日常に定着している。そんな日常に溶け込んだものの中にも、ひっそりと違和感が潜んでいることもある。そしてそのことに、ふとした瞬間に思いがけなく気がつくのだ。  

 

そういえば、あの日トイレの鏡越しに私と目が合ってしまった人は、どんな気持ちだったのだろうか。