とりあえずそこ置いといて

映画化も、ドラマ化もしない何でもない日常で感じたことや考えたことの寄せ集め

熱狂のあとで

中学時代の美術の先生が授業開始前に話していたことを今でも覚えている。どんな話かというと、お祭り当日の熱気と活気に溢れた街もいいが、祭りが終わった次の日の静けさも趣があって好きだ、という話だ。夏の時期は花火大会や地域の夏祭りなど、イベントが多い。だからふと思い出してしまった。

 

花火大会は夏の一大イベントなだけに、終わってしまえば、夏という季節が終わったのではないかと錯覚するほどに物寂しさを感じてしまう。闇を切り裂きながら昇る龍のような光。消えたと思った光は数秒後にパッと花開く。光が咲いた瞬間だけ隣で一緒に見上げている人の顔がよく見える。普段はスマホを見ながら下を向いて歩いている人々もみな一斉に空を見上げる。花火を見上げる全ての人の鼓動を一束にまとめたような「ドンッ」という音。あちらこちらで聞こえる感嘆のため息。溶けたかき氷。簡易トイレの行列…。どこを切り取っても“夏らしい”に溢れている。それが終われば、着崩れた浴衣にじんわりと汗を滲ませながら帰るのだ。夏祭りも同じようなものだ。焼きそばわたあめチョコバナナ。屋台の明かりに吸い寄せられ、財布の紐がほどけていく。普段と違う街並みにワクワクするのは子供も大人も同じだろう。

 

だが、祭りの翌日は、いつもの見慣れた街に戻ってしまう。あんなに甘い香りや香ばしい香りを漂わせていた屋台は跡形もなく消え去り、花火を見上げていた人々は静かに、いつも通り各々の日常を遂行していく。夏を満喫するイベントが終わってしまえば、あとはうだるような暑さの日々を淡々と消費していくだけだ。

 

中学時代はこの“祭りのあとの静けさ”を美しいという感覚がいまいちピンときていなかった。まだ子供だったからなのだろうか。でも、今ならなんとなく分かる気がする。普段とは異なる刺激を味わったあとの日常生活においては、いつも通りの静かな日常を遂行するようにしていても、どこかまだ祭りの余韻に浸っていたいという気持ちが残っているように思う。その気持ちと、もう終わってしまったのだと受け入れる気持ちとがおだやかに殴り合いをしているような気さえするのだ。余韻に浸りたいけれども普段通りの生活に戻らねばならないという葛藤を抱えたまま街を見渡すと、たしかにグッとくるものがある。街が静かであれば静かであるほど、前日の熱狂の幻影が色濃く浮き上がってくる気がするのだ。