無名日々記

映画化も、ドラマ化もしない何でもない日常で感じたことや考えたことの寄せ集め

生の隣には

◆読んだ本

小僧の神様 城の崎にて』/志賀直哉/新潮社/1968年

 

蜂の静かな死、死から全力で逃げ回る鼠、思いがけず殺してしまったイモリ。養生先での出来事が淡々と記された文から伝わってくるのは、筆者の心の静けさだ。穏やかとも冷淡とも違う、静謐さというものが伝わってきた。実際に死に直面し、死に親しみが生まれ心が静まった筆者の紡ぐ言葉は、澄んでいて美しかった。

 

 蜂の死については、「静かだった」、そして「淋しかった」とある。一方、鼠の死については、「淋しい嫌な気持ち」と書いてある。筆者は、普段忙しなく動いている蜂が全く動かなくなったのを見て、死んでしまった淋しさを覚えつつ、その死が静かであることに親しみを感じた。しかし、鼠の死の間際を見ると、必死にもがいて何とか命をつなぎ止めようとしていた。死に至るまでは“静”ではなく“動”であった。淋しい嫌な気持ちになったというのは、筆者自身が死後の静かさに親しみを抱きつつ、鼠と同じような状況になったとき、やはり、助かるために必死に努力する(=苦しみもがく)可能性があることを想像できたからだと思う。

 

 いつかは死ぬと分かっていながら、それが遠い未来のことだと思ってしまう。これは、私も同じだ。明日事故で死ぬかもしれない可能性を度外視して、死はもっと先にあるものだと信じて疑わない。明日死ぬかのように生きろと言われても、その意味を十分理解できないかもしれない。筆者は静かに澄んだ心で死を見つめたことで、生きていることと死ぬことはそれほど差があるわけではないという考えに至っている。私はこの本を読んで、死は生の反対側にいる得体の知れないものではなく、案外自分の近くにいて共に生きているような気がしてきた。