日々の断片採集記

映画化もドラマ化もしない日常で感じたことや考えたことの寄せ集め

【映画記録⑧】分かり合えないこともない

◆観た映画

『みんな、おしゃべり!』

監督/河合健

出演/長澤樹、毛塚和義ほか

2025年/日本/143分

 

何だかすごいものを観てしまった。エンドロールに入ってからもずっと圧倒されていた。ろう者とクルド人が登場するため、映画を観るまでは“マイノリティ”がテーマなのだろうと思っていたが、見始めて数分で、これは“言語”そして“コミュニケーション”の話なんだと気づくことになる。

 

映画が始まる前に、「字幕も作品の一部」であることが示された。この時はそこまで深く考えていなかったが、物語が進むにつれてその意味がじわじわと分かってくる感覚があり、とても新鮮だった。冒頭では、クルド人が話している言葉がそのままクルド語の字幕表示になっており、何を話しているのかさっぱり分からない。でもそれは主人公の夏海(=日本人であり、聴者)と同じ状況であり、夏海と一緒に分からない状況を体験しているようだった。外国の映画を観るときも日本語字幕で観ることが当たり前になっていたので、何を話しているのか分からないということに、こんなにもストレスを感じるんだと改めて気が付いた。

 

些細なすれ違いをきっかけに激しく対立することになるろう者とクルド人だが、二者の間には「聴者だが手話が使える日本人」、「日本語が話せるクルド人」、「聴者で手話が分からない日本人」…というように様々な人物が存在する。そこには、日本語・日本手話・クルド語の3つの言語が絡み合い、一筋縄ではいかない関係性が生じていた。ろう者家族の中で唯一の聴者である主人公・夏海と、クルド人一家で唯一日本語を話せるヒワは通訳をやらざるを得なかった。本人たちにしてみればそれは日常なのかもしれないが、自分が言いたいわけではないことでも相手に伝えなければならないというのは、かなり心に疲労がたまるのではないかと思った。逆に、自分が言いたいことを通訳に託さざるを得ない人も、感情まで通訳してくれるわけではないから、自分の怒りが伝わらずもどかしい思いをしているのだろうと思った。

 

物語の後半、互いの“通訳”が不在の中、対立していた夏海の父・和彦(ろう者)とクルド人たちが何とか意思疎通しようとジェスチャーでやり取りをするシーンがある。不思議なことに、伝えようとすれば案外伝わるのだ。伝えたいことが全て伝わっているわけではないが、“何となく分かる”状態で何とかなったのを目の当たりにして、共通言語がないとコミュニケーションが成り立たない、なんてことはないと思った。

 

映画を観て思い出したことがある。高校の修学旅行で台湾に行ったときに、現地の高校生と交流する機会があったことだ。その時は、英語で自分たちの住む町を紹介し合うということをやったが、英語が得意ではない私は事前に準備していた台詞しか言うことができず、英語で質問されて全く分からずにフリーズしてしまった(その高校の生徒の英語は皆ネイティブ並みだった…)。何とか聞き取れた単語から質問内容を推測し、脳内の薄い単語帳を必死にめくって、身振り手振りと表情筋をフルに使い、たまに日本語を交えて何とか答えて乗り切った。たぶん的外れなことを言ったと思うが、理解しようと真剣に聞き取ってくれたことが嬉しかった。自分が使い慣れている言語が使えず、伝えたいことが伝えられない悔しさを大いに感じた。

 

異なる言語、異なる文化…の人同士が100%分かり合えることはないと思う。同じ言語、同じ文化的背景を持つ人同士でも難しいのだから。でも、“何だか似ている部分があるかも”、“なんか通じ合えた気がする”という感覚が少しでもあれば、「分かり合えないこともないんだな」と思える。映画を観ている間、特に前半部分は何で伝わらないんだろうと苦しくなった。でもその分伝わった時の感動は大きかった。静かだがおしゃべりなラストシーンが素晴らしかった。この映画で伝えたいことが全て集約されている気がした。