とりあえずそこ置いといて

映画化も、ドラマ化もしない何でもない日常で感じたことや考えたことの寄せ集め

「わたし」の破片を持つ「あなた」

大学時代、友達が面白いことを言っていたのを思い出した。

 

「たとえ別れてもさ、ずっと私のことを忘れないでほしい。それで、別れたあの人がふとした瞬間に自分のことを思い出してしまうようなら、私は勝ったと思うね。」

 

飲み会で恋愛の話になったとき、友達はそう言ったのだ。その時は、カッコいいこと言うもんだなとしか思っていなかった。でもその話を聞いたあと、恋愛の話に限らず、自分が “忘れたくない”ではなく、自分のことを“忘れてほしくない”という感覚はどんなものなのかについて、考えてしまった。

 

「久しぶり!」
「あれ? どちら様でしたっけ?」

例えばこんな状況。脳の病気や記憶喪失など原因は想像にお任せするとして、相手が自分のことを完全に忘れているという状況だ。誰かに忘れられるというのは、何とも寂しいことだ。なぜなら、その人の世界には、自分は存在していないということだからだ。私はあなたを知っている(私の認識している世界にはあなたは存在する)のに、向こうには私はいない。そう考えると、忘れられることは、自分という存在がゆらぐということだ思うのだ。ゆらぐとはどういうことか?

 

例えば、Aさんに「あなたって○○な人だよね」と言われたとする。このことで、これまで思ってもみなかった、わたし自身の新たな一面を知ることができる。では仮に、Aさんと再会したとき、Aさんはわたしのことを覚えていなかったとする。そうすると、Aさんが認めてくれたわたしの“○○な人”という一面が、急に色褪せてくるように感じる。これが、自分という存在がゆらぐということだ。

自分の顔は、鏡に映すことで初めて知ることができる。それと同じように内面も、他者という鏡に映す(=客観的な視点から評価される)ことで初めてその輪郭が見えることが少なからずあるはず。だから、誰かに忘れられることは、言い換えれば、自分という存在を認識するための手がかりの一つを失うことだともいえる。

 

とすると、自分のことを“忘れないでほしい”と思うのは、単に寂しいからだけではなく、その人を介して認識している自分が消えてしまうことを恐れているからだとも考えられる。

 

…色々と考えてしまっているが、友達はあの発言にそんなに深い意味を持たせてはいないのだろう。〈私と一緒に過ごした時間がいかに幸だったか、忘れないでよ。〉というニュアンスで合っているだろうか? 間違っていたらごめん。

 

今言えるのは、色々と考えを巡らせてしまうような言葉をポロッとこぼすあなたは、私にとって忘れられない存在だということだ。